パスポートがない!
海外では命の次にパスポートが大事なんて言われてるくらいだが
私はそれを随分ぞんざいに扱っていた。
ポケットに裸で突っ込んでいたほどである。
海外でパスポートをなくした人がどれくらいいるかは
わからないが、なくした人しかこの緊張感は解らないだろう。
焦りすぎて、しばらく連絡していなかった友人に突然電話したほどである。
いきなり電話を受けて「パスポートがなくなった」と言われた彼は
どんな思いだっただろうか。
案の定、彼の助言は一つもあてにならなかった。
ベトナムの首都はハノイだがベトナム最大の都市はホーチミンらしい。
ワシントンとニューヨーク的なニュアンスであろうか。
「東洋のパリ」と呼ばれているくらいらしいので訪れない訳にはいかない。
果てしない寝台バスも慣れたものである。
むしろ楽しくなってきたぐらいだ。
バスに揺られながら人生について想像を巡らしていた。
生まれてから老後のことまで考えていたらホーチミンに着くまでに
三回も人生が終わっていた。
暇である。
途中で降り立ったダナンのビーチも美しかった。
その時はまだ気づいていなかった。
そして再び、ホーチミンに向けて出発する。
長い長いバス旅を終えて無事に到着する。
ホイアンとは打って変わりバイクの怒号が鳴り響く。
東南アジアの騒がしい街に来たと思うと身体中の血が騒ぎ出す。
バス旅の疲れなど忘れて街を歩き回っていた。
ホステルに到着し、受付でチェックインを行う。
受付のおばさんにパスポートの提示を求められた。
そこでついに私は気がついた。
パスポートがない。
・・・パスポートがない!!
このままでは日本に帰れない。
それどころか宿にも泊まれない。
疲れ果てていた体でいきなり野宿はきつい。
受付の女性に『カバンの奥にパスポートが入ってて
すぐに取り出せないから後で渡す』と苦し紛れの言い訳をして
半ば強引に寝床へ向かう。
エントランスにいた可愛い犬を撫でながら
どこに置いて来たんだ。もしかしたら盗られたのかも。
早く大使館に行かなきゃ。と考えを巡らしていた。
目の前の犬は呑気な顔でこっちを見てくるので少し腹立たしかった。
気分転換に美味しいと噂のシチュー味のフォーを食べに街へ繰り出す。
外に出る時、エントランスのおばさんに『パスポートは?』と急かされるも
『ご飯食べてから渡す』と一言残し、颯爽と立ち去る。
ベトナムではフォーを何度も食べる機会があった。
しかし、私はあまり美味しいと思わなかった。
中でもサービスエリアで食べたフォーは人生で食べた料理の中でも
稀にみるくらいの不味さであった。
ただ、このフォーはめちゃくちゃ美味しい代物であった。
前に座っていた白人のおばさんと『本当に美味しいね』なんて
微笑みあっているとパスポートのことなんてすっかり忘れていた。
宿に戻るとエントランスのおばさんが腕組みをして待っていた。
『パスポートは?』
私は答えた。
「...I don't know.」
つづく